小説家になることを夢見ている知人が居た。
知り合った当時は僕も彼も大学生だった。脇目も振らずに夢を追いかけることが許されるような歳だ。
僕は前の記事で書いたとおり特に夢もなく、ぼんやりと生きていたわけだけれど、彼は違った。
彼は小説家になりたいのだと度々口にしていた。
それも、恥ずかしがることもなく堂々と。
そういったところから、文章をかいてメシを食っていきたいと心から思っていたらしいことは十二分に伝わってきた。
夢は誰かに語ってもすり減るものではないから、彼のように他人に豪語することは自分を鼓舞するのにうってつけの方法だと思った。彼はきっと僕以外の人間にも、まるで呪文を唱えるみたいに自身の夢を語って聞かせていたに違いない。
他人事ではあるけれど、当時の僕はなんとなく、臆面もなく語る彼にエールを送りたくなった。誰かが夢を語るのを聞くのは興味深く、素直に楽しい。
彼は地道に執筆を続け、とあるサイトに自身の小説をアップしていたらしかった。
大して深い仲でもない僕にそのことを話したのは、もしや「作品を読んで感想が欲しい」ということを暗に示しているのではないかと思い、僕は「よかったら読ませてよ」と柄にもなく気を利かせて先回りしたのを覚えている。
彼は待っていましたと言わんばかりに、嬉々として僕に作品を教えてくれた。
彼に作品を教えてもらった僕は、早速自宅のPCで読んでみることにした。
掲載されている話を読み進めていくうちに、しかし僕の中には得も言われぬ違和感が募っていった。
彼の紡ぐ物語は(具体的なことは書かないが)ファンタジー的世界観で繰り広げられるもので、壮大だった。
しかし同時に茫漠としていて、話の本筋が非常に掴みにくかった。
彼は頭が良く、色々な知識を持っている男だった。
けれど博識であるがゆえに、衒学的で回りくどいような文章に仕上がっていた。度々本筋に水を差すような話が長々と装飾過多に挿入されていて、読む側としては辟易させられる部分が沢山あった。
どうでもよさそうな情景描写ばかりが風変わりで難解な言葉でまくし立てられ、肝心な所は言葉足らずに淡々と終わっているのだ。純文学作家にかぶれて真似ごとをしている印象を受けた。
率直に言って退屈だった。
彼の文体が好きだという人もきっといるのだろうし、全てを否定しようとは思わない。
ファンタジーが好きな人もいれば純文学が好きな人もいる。十人いれば十通りの好みがある。
そもそも僕の頭の悪さのせいで理解できない部分もあったのだろう。
けれどそういう人も彼の物語に触れることはある。僕が彼の作品を手に取ったように。
分かりやすさが作品の価値だとは思わないけれど、物語である以上、僕の様な人間も含めてなるべく多くの人にストーリーを理解される必要があると思う。自己満足的な文章は小説には適さないように感じた。
僕はべつにブログの匿名性にかこつけて彼の作品をこきおろしたいわけではない。当時の率直な感想を思い出したので書いてみただけだ。
――それはどうかと思うぞ、と思ったこと
なにより彼は一つ、すごく引っかかる発言をしたのを覚えている。
それは「小説を書くのは好きだけど、今まで一度も最後まで完結させたことがない」
という発言だ。
それは……小説家を目指しているのであれば――はたしてどうなんだろう、あまり褒められた面ではない気がする。
世の中に小説家は掃いて捨てるほど沢山いるが、物語を完結させることのできない小説家はきっと皆無だろう。
物語の風呂敷を広げることは出来ても、上手にたたむことは出来ない。それではおもちゃを使って遊ぶことはできても、うまくお片付けできない赤ん坊と同じではないかと思った。
もちろん、上記のような感想は間違っても本人には言っていない。
角がたたないように当たり障りのない褒め言葉を贈ったのだと思う。本人が小説をかく事を心から楽しんでいて、満足しているのであればまぁそれでいいんじゃないかと思ったからだ。
彼は同学年なので、今は恐らく社会人として邁進していることだろう。デビューを夢見て執筆を続けているのかもしれないし、あるいはもうすでにデビューしたりしているのかもしれない。
それほど仲がいいわけでもなかったのできっとこの先彼と会う事はないだろうし、知る由もないことだけれど……。