ガケノフチ・ノート

ADHD・ASDな俺が、ボケ防止のために始めた大変有意義な雑記ブログです。

文庫本バリア(MP消費0)という魔法の思い出

 

――1

 

僕が文庫本バリアという技を習得したのは、中学二年生の頃のことだ。

思春期真っただ中の、ニキビと自意識だけが豊富に浮かび上がる、斜に構えた中学生だった。

その頃の僕はとにかく何かにつけクールキャラを気取ったり、実際は何も考えていないのに何かを考えている風な哲学的な表情を浮かべたりしていた。

実際にクールキャラとして認識され始めてくると、無上の喜びを覚えたものだ。

 

しかし、そのキャラクターの全てが作りものだったのかと言われると実はそうではなく、7割くらいが僕の生来の口数があまり多くない性格に由来していた(社交辞令や1対1のトークには自信があるのだが……)。

 

基本的に教室の中の喧噪が苦手だった僕が、クールキャラとしてクラスに根付く事になったのは、必定のことだった。

 

大人になってからはだいぶ改善されたが、このころの僕は大人数で雑談をするのが大の苦手だった。誰が何を言っているのかさっぱり把握できなくなるからだ。

 

人間、苦手なものが目の前に現れたら、逃げるか克服するかの二つに一つだ。

僕の文庫本バリアはそのどちらに属するかはわからない。

逃げという人もいるかもしれないし、知恵を使って克服したと言う人もいるかもしれない。まぁ、今となってはそんな事はどうでもいいことだ。

 

 

 ――2

 

僕の中学は給食制だったのだが、配膳の時間、給食係以外は班ごとに【島】にした席について待っていなければならなかった。

その時間、みんな思い思いの雑談をしながら待機するのだが、僕はこの時間が苦痛で苦痛でならなかった。

 

誰かと話さなければいけないような独特の強制感あふれる時間が、僕を責めさいなんだのだ。話を振られても、ひきつった笑顔で当たり障りのない回答を返すことしかできなかった。

 

僕は、どうにかして話しかけられない方法はないものかと思案した。

そこで思いついたのが読書だった。

わき目もふらずに読書をしていれば、話しかけられる事はないのではないのか。そう思ったのだ。

 

当時はもっぱらライトノベルばかり読んでいたが、萌え萌えキュンなイラストが描かれたラノベを公衆の面前で読みふけることには、たとえブックカバーをつけていようと流石に憚られた。

 

ちゃんとした(ラノベがちゃんとしていないわけではないが)小説を読む習慣がついたのはだいぶ大人になってからだったので……だから当時の僕は小説が何か堅苦しいものだと思い込んで敬遠しているきらいがあった。

 

 

さて、早速僕は休日に文庫本バリア用の本を買いに、近所のブックオフに足を運んだ。

記憶があいまいだが……【乙一】氏の小説を買った覚えがある。

次の日から僕は文庫本バリアを発動させてみた。

皆が雑談している中、文庫本を取り出して読みふけったふりをするのだ。大事なのは周囲に【ガケノフチは一生懸命読書をしている】と思わせることで、実際に読んでいるかどうかは問題ではなかった。

 

――3

 

結果から言うと、僕の文庫本バリアは功を奏した。

給食の待機時間に限って、周囲のみんなは僕にあまり話を振らなくなったのだ。

僕は味をしめ、以後、毎回文庫本バリアを発動させるようになった。

 

喧噪の輪から無事脱出出来た僕。読書するフリも板についてきた。

 

そのうち僕は、読書しているフリではなく真剣に小説に読みふけるようになった。頭が悪かったので、何度も繰り返し読み返した。

 

そうしているうちに、堅苦しくツマラナイと思っていた小説も、ライトノベルと大差ないことに気が付き始めた。架空の人物が抱く架空の感情が錯綜し、架空の場所の架空の情景が描写されているという点で、純文学もラノベもエンタメ小説もミステリも、何も変わらなかった。僕は、架空の世界に耽溺することの魅力に気付き始めた。

 

そのうち給食の待機時間は、寧ろ僕の楽しみの時間へと変わっていった。その時間以外では相変わらずラノベしか読まなかったけれど、大人になってから読書好きになったのはこのころの文庫本バリアの出来事があるからだと今にして思う。

 

――4 

 

大人になった今でも文庫本バリアを使う事がある。

電車の中で、喫茶店の中で、自宅で、公園のベンチで、会社のレストルームで―――。

文庫本バリアは、消費MP0で誰でも発動させることのできる魔法である。

それは、世界中にあふれる雑音によって心が疲弊した時、自分を喧騒から避難させるための知恵なのだ。