1
僕が上司に退職する旨を伝えたのは、肌をつんざくような寒風が吹き荒れる×月のことだった。
安易に決断したわけではなかった。
悩みに悩みぬき、そして導き出した答えであった。
決意を胸臆にかき抱きながら床につき――そしていつもと変わらない朝を迎える。
差しこむ朝日に目を眇め、大きく欠伸をする。
リビングへと向かうと、母が作った朝食が湯気を立てている。僕はそれをインスタントコーヒーとともに胃袋へ流し込み、ごちそうさまと小さく呟く。
顔を洗い、歯を磨き、身だしなみを整えた後、革靴に足を突っ込み家を出る。
――いつもとなんら変わらない朝。
2
職場に着くと、僕は始業の準備に取り掛かる。
一番年下で、下っ端の人間に課された雑用は予想以上に煩わしい。
課内の職員全員の机を拭き、コーヒーメーカーをセットし、溜まったゴミを捨てに行く。
このために僕は始業45分前に出勤することを義務付けられていた。
始業10分前。
僕は奇妙な高揚を感じていた。
「今日退職の意を伝えれば、もうここに来る必要はないんだ……!」「俺を精神的に追い詰めた忌々しき場所と絶縁できるんだ……!」という安堵と、今まさに自分が人生の分岐点に立たされているという計り知れない緊迫感が強烈に同居していたのだ。
上司が席に着いたのを見計らい、僕は意を決して駆け寄った。
――今日、お話したいことがあるのですが、お時間大丈夫でしょうか?
上司は何かを察したのだろう。すぐさま会議室を貸し切ってくれた。人の上に立つ人間に相応しい気遣いのように思われた。
3
ひと気のない小さな会議室につき、僕は上司と向かい合って着席した。
僕は単刀直入に、退職したいということを伝えた。
話し合いは30分程続いた。
終盤、上司は俯き「力になれなくてすまないと思っている」と弱弱しく零した。
僕はそれに対して何も言えなかった。
何と答えれば良かったのか、今でも分からない。
唯一つ分かることは、あなたが謝ることではない、ということ。それだけだった。
結局その日、僕は出勤してから3,4時間ほどで早退した。
上司がはからってくれたのだ。
退職の手続きのためにあと数回、職場へ行かなければいけなかったけれど、全てこの会議室で行われたため、この日以降、自分のデスクに行くことはもう無かった。
――意外とあっけないな。
それが僕の感想だった。
悩みぬき、葛藤を感じながらした決心とは裏腹に、退職手続はひどく簡素で事務的なものだった。
4
上司との話し合いが終わり、会議室を出たとき、安堵の波がどっと押し寄せてきた。それは、静かなさざ波というよりかは、津波のような激しいものだった。
後悔の二文字は、一切浮かび上がらなかった。
僕はカバンを抱えて職員通用口まで小走りで向かい、扉を開け放った。
冬特有の高く澄んだ空が広がっていた。雲ひとつない晴れ渡った空の下、深く息を吸い込む。
これからは何者にもなれる。不思議と、根拠もなく前向きだった気がする。
僕はバイクに跨り、エンジンをかけた。
真っ直ぐ家に帰る気には、なれなかった。
そのまま日が暮れるまで運転し続け、千葉県の海沿いの町にたどり着いた。
その頃には既に夜の帳が下り、暗闇の中で星が瞬いていた。
海岸沿いの駐車場にバイクを停め、普段持ち歩いている水筒を取り出し、紅茶を口にした。
それはすっかり冷めきっていて、底冷えした身体を温めてくれることはなかった。
ネットカフェなんかが近所にあれば朝まで時間を潰せたのだが、驚くほどなにもない土地だったので、不可能だった。
仕方なくバイクに腰掛け、僕はひたすら朝を待った。何時間も、星空と黒々とした海とを眺めながら、何時間も待った。
夜が明け、水平線が白み始めるころ、茫洋たる海がようやく姿を現し始めた。僕は僅かな眠気を覚えながら海沿いを散歩し、時折空を仰ぎ見た。これほどまですがすがしい気持ちになったのは人生で初めてかもしれない。
昨日までを拭い去り、新たなスタートを切ろうと、自分と約束したのだった。
終わりに
特に目的もなかったので、そのまま自宅に向かうことにした。途中、道の駅の様な所を見つけたので、立ち寄って食事をとった。刺身定食。よく覚えていないが、確か1000円くらいだった。美味。